*[コラム] 善竹(茂山)富太郎くんのこと
高校そして大学の心理学科の同級生だった大蔵流狂言師の善竹(茂山)富太郎君がコロナで亡くなったと聞き、茫然としています。何と言葉にしてよいかわからないくらい、本当にショックです。一昨夜心理学科の時の友人から教えてもらい、嘘だと思いたい一心で電話をしたら、弟さんが出られて、本当だったとわかりました。4月5日に入院してから闘病していたものの、快癒の願い叶わず…とのことでした。昨夜はヤフーのトップニュースにもなっており、胸がつぶれそうでした。
少々長文失礼します。大学の心理学科は男子が少なく、そこから富太郎君とは特に仲良くなりました。大変畏れ多いことですが、お前皇太子様に似てるな~と思ってた、なんて言われたところから親交が始まったと思います。当時携帯電話を持とうとしなかった私の実家にいつも電話をしてきて、早く携帯持てよとさんざん言われたのも懐かしいです。モノマネも得意で長話好きでした。当時私はギターを本格的に弾き始め、音楽を作り始めていたのですが、富太郎君は狂言だけでなく音楽にも幅を広げたいと思っていたみたいで、ある日いつものカラオケボックスに呼び出されると(彼が好きだったASKAに影響されたと思しき)曲を作ったよ!とくせのある字で沢山の歌詞を書いてきたものを渡され、それ以来お互いの家やカラオケボックスを練習場所に行き来したりして、私のギター伴奏で曲を仕上げていったこともありました。最終的に富太郎君が10曲くらいのオリジナルを作り、私の「ワラベウタ」という曲を富太郎君が歌ったものを含めて4曲の簡単なデモを作りました。「あいつと呼んだあの場所まで」という曲は、彼の人には見せられない弱みをさらけ出したような名曲でした。
じきにトッタ(TOTTA)とイチでロングロングアゴーっていうグループ名にしようと彼が提案し、お前仕事辞めて本気で腰を据えてやろう、責任はこっちで持つからと迫られました。ちょうど確か私も25歳を超えて、まだ就職先を転々としたりしていたと思います。でも私は、音楽を続けていきたいけれど、自分の曲と歌でやりたかったから、最後の最後は断ったのでした。その時の寂しい声はなんとなく忘れられません。
その後も、私の結婚式の時に、場の空気を変えるほど素晴らしい狂言を披露してもらったり、国立能楽堂やセルリアンタワーに舞台を観に行くことも沢山ありました。ボーカルレッスンも始めたようで、ジャズを唄うライブに誘われて、観に行ったこともありました。お前との後に自分でこんな歌の世界を作ったよ、と私に見せたかったのかもしれないです。
大柄ながら、高校時代バスケットボールプレイヤーとしても一流だった運動神経で、その狂言の舞台は実にダイナミックでした。巧みな話芸や滲み出るコミカルさは、人間国宝の血を引く天性のものだったと思います。自主公演を行うほか、様々な領域の芸能とのコラボレーションや大学教員として後進の育成、学校狂言など、狂言の裾野を広げる啓蒙活動に精力的に取り組んでいました。今から、という所でこんなことになってしまい、ただただ残念でなりません。お父さん、弟さんとの舞台をもう一度観たかった。謹んでお悔やみを申し上げます。