年末年始の関心事はソニー・カーティスだった。
ロックンローラーが憧れるロック・アイコン。というとまずはエルヴィスだけれど、生まれ持ったセックス・アピールが備わっていないのなら、バディ・ホリーになろうとするものだ。黒縁メガネにフェンダー・ストラトキャスター。ウォーリーを探せ、のウォーリーみたいな、スマートで知的なイメージ。メガネをかけてロックすることを初めて認めさせた人。エルヴィス・コステロという人は巧妙かつ欲張りだった。芸名はエルヴィス、見た目はホリー。日本のポップスの王道を歩むミュージシャンにも彼のスタイルを借りて音楽を表現しようとした佐野元春(セカンド・アルバムのタイトルはホリーの曲と同じ”Heart Beat”だった)や大滝詠一(ヒーカップ唱法の際立つ”Everyday”を”A面で恋をして”で蘇らせた)、それにコステロ経由の桜井和寿がいたけれど、それもそのはず。かのビートルズだって、ホリーのバック・バンドのクリケッツ(コオロギ)にあやかって、ビートルズ(カブト虫)と名付けられたのだったし、同じリバプールのキャバーンで活躍していたバンドに、その名もホリーズ、だっていたわけだし。
ドン・マクリーンがシングル盤の表裏で完結するという前代未聞の長編”アメリカン・パイ(パート1&パート2)”をリリースしたのが1971年。この曲の印象的なヴァースでは、バディ・ホリーが1959年、弱冠22歳にしてにビッグ・ボッパーやリッチー・ヴァレンスと共に飛行機事故で亡くなった日を「The day the music died.(音楽が死んだ日)」と表現していたのだった。幾通りにも解釈ができる不思議な曲だけれど、マクリーンは誰の人生にも訪れるイノセンスの喪失を、ビートルズ解散を迎え肥大化するロック産業と重ね合わせつつ、ベトナム戦争の泥沼化で疲弊し切った70年代初頭のアメリカの時代状況の中で無意識的に歌い上げようとしたのだと思う。マドンナはこの曲を21世紀が終わろうとする2000年に映画『2番目に幸せなこと』の挿入歌としてカバーした。その映画は60年代のカウンター・カルチャーを代表する作品『真夜中のカーボーイ』でアカデミーを獲ったジョン・シュレシンジャー監督最後の作品となったし、翌2001年9月11日にアメリカは同時多発テロを経験し、ポピュラー音楽におけるアフロ・アメリカンの世紀(20世紀)が終焉(終演?)する序章と相成った。マドンナが予言者だったとは言わないけれど、表現者が時代の空気を読んでいることは確かだ。
話を戻そう。年末年始の関心事はソニー・カーティスだった。バディ・ホリーを聴く度、作曲クレジットがホリーでないと気付いて以来少しずつマネジャーのノーマン・ペティはじめクリケッツについて調べたり、CDやレコードを買ったりしてきたのだけれど、クリケッツの中でもグレン・D・ハーディンやジェリー・アリスンよりも、ソニー・カーティスに着目したのは、その時代を超えたメロディ・メイカーぶりと自演盤の多さだった。ソニーはホリーとは古くからの友人であり、初期のレコーディングにも参加。ホリーの死後にはクリケッツのギタリスト・ボーカリストとなった人。
バディ・ホリーとクリケッツはビートルズ以上にパワー・ポップのルーツだと思える。他のロックンローラーと比べてもブルーズ色が薄く、曲によっては黒人になろうとしていないような音にも思えたり。でも演奏はベース・ギター・ドラムスだから、ロックなビートが生まれる。白と黒のバランス。ビートルズもそこを意識的に受け継いだ。3コードでもセブンスを際立たせたブルーズ進行一辺倒ではなく、カントリー的な甘さがあったり、そこマイナー・コードを1つ入れてポップ・バラードをロック化させたりといった発明を加えた先駆も彼らだったように思える。グレアム・ナッシュが愛したのもそこだろう。そんな意味では、アメリカ的な黒人ルーツ色が薄れた2000年代以降のロック・ミュージック(ガラパゴス化したJポップも含めて)もエルヴィス的というよりホリー的なのだろうと思ったり。
さて、ソニー・カーティスの自演盤を幾つか取り出して聴いている。1937年テキサス生まれ。今は78歳。友人のバディ・ホリーも生きていたら今年で79歳だった。DOT傘下のVIVAから年にリリースされた『The 1st Of Sonny Curtis』は、ビートルズ人気の便乗盤のような1964年の『Beatle Hits Flamenco Style Guitar』に次ぐセカンド。本人的にはソングライター、シンガーとしての1stという意味合いをタイトルにこめたのだろう。既にクリケッツ名義の1960年盤『In Style With The Crickets』に収められていた”More Than I Can Say”(ジェリー・アリソンとの共作)と”I Fought The Law”が再演されており、新進ソングライターのショウケースのような仕様になっている。”More Than I Can Say”は1961年にボビー・ヴィー(クリケッツとの共演盤がある)が取り上げ、1980年にはレオ・セイヤーのカバーが再び全米2位に達した。”I Fought The Law”は『In Style With The Crickets』から5年経た1965年にテキサスのガレージ・バンド、ボビー・フラー・フォーが取り上げてやっと全米9位の特大ヒットになった曲。ボビー・フラー・フォーは二匹目のドジョウだろうか、ホリーの未発表曲”Love’s Made A Fool Of You”(こちらも『In Style With The Crickets』収録)を次のシングルに切っている。それが今度はロンドン・パンクの雄クラッシュが1979年に再び取り上げて、チャート・アクションはなかったものの、誰もが一度は耳にしたことのあるパンク・スタンダードに仕立て上げたのは有名だ…遡れば1960年に既にパンク的なこのギター・リフを完成させていたソニーの革新性に感動する。ちなみに『The 1st Of Sonny Curtis』は本来のデモに近いであろうアクースティックなヴァージョンで、譜割りも違い、パンク版を期待すると肩すかしを食らうかも。他にはエヴァリー・ブラザーズが取り上げた”Walk Right Back”の自演もアリ。これも良い曲だ。
あとはBarnabyから1972年にリリースされたThe Crickets単独名義の『Rockin’ 50’s ROCK & ROLL』はコオロギの絵がリアルすぎて不気味だけれど、”Peggy Sue”、”That’ll Be The Day”、”It’s So Easy”、”Everyday”等といったホリーの代表曲をソニー・カーティス(1曲だけジェリー・アリソン)のボーカルで再録音した好作。50年代懐古の新しいタイトル曲だけデラニー・ブラムレットのプロデュースになっているのも興味深い。ビートルズが1963年に書いたクリケッツへの賛辞も4人のサインと共に裏ジャケットに印刷されている。
ソニーは1970年代には幾つかのシングルをリリース。1979〜81年にエレクトラから『Sonny Curtis』『Love Is All Around』『Rollin’』という3枚のアルバムを再びリリースし、ソロ・アーティストとして返り咲く。1980年の『Love Is All Around』はひげを蓄えて無骨なカントリー・シンガー然としたソニーが”I Fought The Law”や”Walk Right Back”を再び歌う。”The Real Buddy Holly Story”に加え、ポール・サイモンのカバー”Fifty Ways To leave Your Lover”が含まれているのも注目したい。バックはThe Hitmen名義、ジョー・オズボーン、レジー・ヤング、ボビー・トンプソンの腕利き3人。
そして日本でも結構話題になった2004年のクリケッツのトリビュート作『The Crickets And Their Buddies』は素晴らしかった。ソニー・カーティス、ジェリー・アリソン、ジョー・B・モールディンという現クリケッツの面々に、上手すぎるアルバート・リーがギタリストとして加わった盤石なバッキング。そこにエリック・クラプトン、グレアム・ナッシュ、J.D.サウザー、ボビー・ヴィー、ジョニー・リヴァース、フィル・エヴァリー、ウェイロン・ジェニングス、ナンシー・グリフィス、ロドニー・クロウェル、ヴィンス・ニール…といった豪華かつ、ゆかりの&レスペクトする人々が客演する夢のような一枚。そうそう、ホリーのトリビュートではポール・マッカートニーやルー・リードなんかも参加した『Rave On』(2011年)も聴き応えがあった。
そして2007年には今のところCD形態でのソニーの最新リリースになるのかな、『Sonny Curtis』が出ている。これを入手したのが今年のはじめ。ソニーのキャリアを総括する15曲。よく曲目を見ていたら、コレ、エレクトラからの3作から抜粋されたベスト盤の趣き。”It’s Not Easy Being Fifteen”はデヴィッド・ゲイツの1994年作のタイトル曲”Love’s Always Seventeen”に少し似ている気がした。ちなみにこれは以下のソニーのHPから購入できた。送られてきた封筒の送り主のサインを見てびっくり。ソニー・カーティス本人が極東のリスナーにCDを1枚送っている姿を想像して微笑ましくもなった。