/ Americana ( Reprise /2012 )
レコード・マップが最終号になるだとか、ロック現役世代の死と共に、レコードというアナログ音楽メディア、そしてデジタルなCDというフォーマットですら使命を終えようとしている今。四人囃子〜90年代の売れっ子プロデューサーとして知られる佐久間正英のブログ「音楽家が音楽を諦める時」の波紋を友人より知らされ(http://masahidesakuma.net/2012/06/post-5.html)、そんな時代の気分を判ってはいたけれども、改めて感じ取っている。今更の感がある不正ダウンロード厳罰化だとか、もはや抑止力にはならないのだろう。だからといってそれを偉そうに批判するリスナーが、音楽への対価を支払うことを単に渋っているというのも見透けてくる。今までタダで聴けたじゃないか、なのになんで、という音楽愛のない生理的反発はとっても悲しいものだ。ただ、佐久間さんが音楽をやめるわけでもなさそうだし、今までのやり方を諦める時、と読むのが正しそうだ。人間と音楽の関わりはレコーディングや拡声技術が生まれてから今まで、より遙かに長く深かった。
聴き手の立場を見ても、どん詰まりの現状ってのは、かつて自称ジャズ・ファンが自らの手でジャズを狭い音楽=過去の流行スタイルに押し込めてしまったように、うるさ型のオールド・ロック・ファンが自らの手で、自己反復しか認めない広がりようのない聴取法でロックの命、そして世代間の連携を絶とうとしているように見える。もちろん、どんなスタイルの音楽も面白がって渉猟する例外的な音楽ファンも中には存在しているし、目先の利益を求める音楽産業にありながら奉仕活動のようなレコードを作り続けているレーベルだってあるわけで、それを救いとしたいわけだけれど。
さて、本日は今なお旺盛なリリースを続けているロック・レジェンド、ニール・ヤング。ウィズ・クレイジー・ホース名義で出た新作はフォーク・ミュージックのカバー集。ボーナス楽曲も特にないので輸入盤で入手。近年アメリカのルーツ志向の音楽をアメリカーナと呼んでいるけれど(90年代にはオルタナティブ・カントリーなんて言葉もありました)、それを新作のタイトルに据えている。どんなもんかなと思って聴いてみると、いつものラフなニール・ヤングのエレクトリックな音作り。スタジオの音出しをそのまま録ったような。ボーカルのミックスが小さめかな、なんて思う曲もあったけれど、こんなラフさが良い。ジャケの質感も良い。よくよく考えてみたら、CSN&Yの名作『Deja Vu』も擬古調、アーリー・アメリカンなジャケだったな。
冒頭、ジェイムス・テイラーも取り上げているスティーヴン・フォスターの”Oh Susannah”ということで、聴いてみると意外にもロックな作りで、すぐに聴いてビッグ・スリーのヴァージョンだと気が付いた。ビッグ・スリーとは、ジミ・ヘンドリックスが”Hey,Joe”のレパートリーを盗んだ骨太のシンガー、ティム・ローズやママス&ザ・パパス結成前のママ・キャス・エリオット、ジム(ジェイムス)・ヘンドリクス(ジミ、じゃないですよ)が在籍していたフォーク・トリオ。”The Banjo Song”のタイトルで歌われていたもので、ショッキング・ブルー/バナナラマがヒットさせた”Venus”の原曲との説もある(たぶんそうでしょう)。ニールの今作もよくライナーのクレジットを見てみると、ちゃんとティム・ローズのアレンジと書かれていた。
他にも日本人におなじみの雪山讃歌、"クレメンタイン"やら"トム・ドゥーリー(Tom Dulaという綴りだった)"やら、レッドベリー/ペイジ&プラントでも知られる"ギャロウズ・ポール"とか、60年代のフォーク歌手がよくレパートリーにしていた"ハイ・フライング・バード"とか、ウディ・ガスリーの"我が祖国(ディス・ランド・イズ・ユア・ランド、スティーヴン・スティルスもヴォーカル参加)"とか。かなりロックなアプローチになってコードも変わっていて、これこそフォークの解釈だな、と。ラストのイギリス国家"ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン"なんてのもビックリのカバー。ロック君が代かよ、という忌野清志郎的発想に驚く。清志郎が完全にロックのイディオムで動いていた人だったということがまたしても証明された。
フォークというと、日本民謡もハリー・ベラフォンテやマニアックな所ではカナダのアディス&クロウフットとか、日本では加藤和彦のフォーク・クルセダースがアメリカン・フォーク的アプローチ・世界民謡の文脈で取り上げられたことがある。これもロック化したら面白いだろう、というのはアイデアでしかないけれど、いつか作ってみたいモノ。あんまりコブシをきかせずに、ね。