なぎら健壱は生きていた。というのも、先日NHKの新番組紹介を見ていてわかったのだが、彼は今春(注 2003年)4月から始まる連続テレビ小説「こころ」に出演するらしいのだ。撮影を行っていたわけだ。ちなみに4月以降の連続テレビ小説は、能動的に見るつもりはないものの心底ほっとした。なにしろ昨年(注 2002年)のヒロインの不細工さ、下品さと言ったら筆舌に尽くし難い。宇宙飛行士は体力はもとより知力が要求されるのだから、ギャップを感じざるを得なかった。(ドラマにリアリティが無いのは「劇:drama」なのだから当然なのだが、そのインチキ臭さを視聴者が「許せ」なければ失敗だ)そういえばさらに思い出したが、たまたまテレビを点けた前作にはかの「小室等」が漫画家役で登場した。小室等は漫画家役だが、唐突にギターを持ち出し歌い始めた。本業がミュージシャンだし一曲歌ってもらおうじゃないのという浅薄な思いつきだと思うが、ああいうインチキ臭さはエルビスや加山雄三なら成立するが小室ではギリギリだ。
そんなことはどうでもいいのだが、なぎらの消息が判明した上でなぎら健壱のホームページを発見した。彼は今年(注 2003年)の正月に「快楽亭ブラック」の独演会にゲスト出演していた。これだから侮れない。
彼のイメージには一見相反する二つが共存している。「アメリカ」と「日本」である。われわれは彼の名前「なぎら健壱」のとりわけ「壱」において無意識的に江戸の匂いを嗅ぎ分ける。銀座生まれの彼が下町文化のスポークスマンとして、下町の情緒・粋・文化を喧伝し、こう在らねばならないという本質的下町文化の存在を流布させている事実は周知であろう。その役割はメディアが彼に要求するものでもある。しかし、だ。そこで疑問を持たねばならないのは、江戸下町文化を紹介する彼が捩り鉢巻の代わりにカウボーイハットならびにベースボールキャップを深々と被り、星条旗模様のウェスタンシャツに身を包んでいるという事実である。日本人よりも日本人らしい日本化した「ガイジン」(彼らはおしなべて横文字の本名を当て字で漢字化する)は日本人でもほとんど着ない(着ることが出来ない)着物に身を包みながら蕎麦をすする。そして自宅に茶室と日本庭園を造るのだ。なぎらの家に日本庭園があるかどうかは知らないが、茶をすすってもジーパンだろう。蕎麦をすすってもベースボールキャップだろう。間違っても和服は着ない。この差はなんなんだ。大衆音楽におけるアメリカの役割なんていうのは言うまでも無いことだし、プロテストフォークにシビれたなぎらがたまたま下町に住んでただけじゃないの、などと短絡的な茶茶を入れるのはやめて考えなければいけない。
フォーク世代の若者たちは、一度は手にしたであろうアクースティックギターにおいても「アメリカ」と「日本」を意識せざるを得なかった。マーティン・ギブソン・ギルドというアメリカのアクースティック・ギターメーカーと国産の真似ギターメーカー、ヤマハ・モーリス・タカミネの間には何が存在したのか。ドルが高かった時代には高嶺の花というより高値の花だったマーティンやギブソンはフォーク小僧たちの垂涎の的だった。今「マーティン」という響きが持つ意味合いは「マーチン」とは少なくとも異なっていた。一般的にはマーティンやギブソンのコピーモデルを手にすることで満足するしかなかった。そして運良く「マーチン」を手にした者はそこで始めて「ホンモノ」の仲間入りが出来たのである。国産ギターしか手に入れられなかった当時の若者の中には涙ぐましいのだが、いまだに安価な国産ギター収集に固執する者も数多い。こうしたギター愛好者の言説に次のようなものがある。国産ギターはコンパクトで使い勝手が良く、リーズナブルだが品質は高い、一方アメリカのギターは、何をおいても豪快で抜群に良い音がするが日本の気候に合わないものもある、などというものである。これは事実である面も少なくないのだが、実際には豪快な音のする国産ギターや、使い勝手の良いアメリカのギターも多く存在するわけで、ちょっとした負け惜しみだ。まさにこれは国産車とアメ車の言説とも重なり合うもの。アメリカの模倣からスタートした国産ギターとオリジナルのアメリカのギター。両ギターの特性の住み分けは無意識的に日本のアクースティックギター言説を支配している。
なぜこんな話を持ち出したかというと、なぎらは近代に引き裂かれた日本を具現する人物だからである。別にこう言ったからといって、彼には是非とも和服で下町文化を紹介していただきたい、などということではない。また、アメリカにも日本にも帰れないみたいでかわいそうだ、ということで全く無い。なぎらのあり方はある種新しい地平だと思うのだ。日本は元々こうだった、というような本質主義の無意味さは既に指摘されているわけで、(一方東洋の異国、として日本を捉える、エキゾチックさに感化されたキモノガイジンも減りそうに無いが)、彼のようなウェスタンハットで下町の粋を語るスタイルにいったんは疑問を感じながらも、なるほどと思う余裕が今必要なのだと思う。
なぎらの音楽スタイルは、現在では単なるフォークというだけでなく、日本の演歌とも類似性を指摘されるカントリーミュージックのスタイルを衣服共々取り入れている。カントリーミュージックはアメリカ内陸部を中心に支持される、生活にどっぷりとつかった、比較的貧しい労働者階級の音楽なのだが、そのサウンドと日本の下町人情噺が違和感を感じさせず交わりあうというのはそれにしてもとても面白い。
いずれにしてもこれを踏まえてNHK連続テレビ小説を見る必要はなさそうだ。<2003年の文章の再録。いささか当時のタイムリーな話題も多いがママ。ちなみになぎら氏は今も健在です。>