〜ロック世代の音楽の「死」と「歌の力」再考〜
4年位前だったろうか、本ブログの姉妹編として音楽書籍を紹介するページを作ったのだけれど、両方続けるのが面倒になって頓挫…ならば、ってんでコチラで取り上げることにした。
さてまずはじめに、最近買ったKAWADE夢ムック、加藤和彦追悼号を。いやほんと昨年は物故者が多く、ある種今まで当たり前だと思っていた音楽の時代が終わったと思える一年で。ミカバンドを正当に評価してきたとは言い難かった罪滅ぼしなのか、真っ先に追悼していた昨年のミュージック・マガジンも買ったけれど、今回もまたまた手を伸ばしてしまった。
正直ファンには知っていることばかりだし、皆がおんなじことばかり書いている。スネークマンショーのアルバムで変名で歌われた”メケメケ”が加藤の歌唱法に新たなヒントをもたらしたとか、成る程と思った所もなくはないが、ユリイカのマイケル・ジャクソン特集号みたいに論文形式っぽくしてる割にはそちらと比しても駄文が多い。ってマアこれを読んでも生き返るわけじゃないんだな。
では、幾つかいろんな意味で引っかかった部分や発見を。まず菊池成孔。正直ワタシ、彼の音楽的業績は全く知らないし、そう言った一般的知名度なのになぜ色々メディアで発言したり特集されているのかまだ理解できていない。けれど、「彼(加藤)の音楽的素養はフォークだと思う」と言い当てているのを読んで、確かな批評眼だなと同意した。音楽世界一周みたいなことをやってきた彼だけれど、声質からしてもピタッとハマるのはやっぱりフォークなのだ。でも、「(加藤の)音楽的なヴォキャブラリーは少なくて、それを粉飾する諸要素がエレガンスやノーブルさを醸し出」すことだった、と結論付けた上で、バークリー産の菊池自身は分析的な耳で彼の粉飾を剥がすことになった、なーんて自分で言っているのは嫌味だなと。個人的には全ての「権力を感じさせるもの」が嫌いなもんで、ジャズやらクラシックやら、元々は素晴らしいものであるにせよ、ソレを知り・理解すること自体が特権性を帯びるようになると、もはやオシマイだなと感じる。フォークはそんなに音楽的に粗野でレベルの低いものなのか、という疑問。もっとも加藤も自らの学歴コンプレックスみたいなものをハイソを気取ることで覆い隠そうとした人だったと思うから、何とも言えないのだが。同じフォークを出発点にしているとしても高田渡とは真逆の人だったのだ。
あとはきたやまおさむのインタビュー。「今、音楽よりも圧倒的に言いたいことが言えて、抑圧された思いを表現しているのは「お笑い」じゃないでしょうか。そうした時に、加藤和彦の出番はなくなっていくんじゃないか。だから加藤の死は音楽の時代が終わったことの象徴でもあるんじゃないだろうか。」
これは本当に淋しい談話だと思う。ここ半年くらい薄々感じていて、判ってはいたことなのだが、こうして言われてしまうと。J-POPなるものの萌芽が見られた80年代半ばに、ホントかウソかはどうであれ、「メロディ限界論」が囁かれた訳だけど。確かに日本のメインストリームのシーンは悲しいくらいその通り、同じメロディや音の焼き直しばかりになってしまった。しかも90年代ごろまでは辛うじて存在した、日本のポピュラー音楽に常に存在してきた「欧米の参照枠」が消滅。大滝詠一の分母分子で言えば、ミスチルくらいまでは「ミスチルぶんのコステロ」が存在したけど、いまでは(例は悪いけど)「コブクロぶんのミスチル」とか「レミオロメンぶんのスピッツ」みたいになってきているというわけで。そんな音楽を有難く受容して素直に感動しているティーンエイジャーには申し訳ないんだけど、歌はよりパーソナルで独善的で、聴き手を選ぶものになってきていると感じるのだ。とうとうパッケージも消滅してしまったように中身も軽量化、形の無いものになってしまった。悲しいけれど。
先の追悼号で、1990年代にも加藤は単発ではあるがいいメロディを書いていたし、時代がそれを望んでいた、遺書にあったように加藤の音楽を時代が必要としていないなんてことはない!みたいな文章があったけれど、それは違うと思う。2000年前後の状況よりも、2010年代が幕を開けた現在の方が確実に深刻な状況なのだ。鬱であったことを含めても死を選んだのは不幸だったと思うけれど、彼自身が「自分は必要とされていない」と感じた点は十分に理解できる。加藤個人の悩みと言うのではなく、音楽文化の危機として捉えるとより今の状況が理解できるだろう。
ここの所ずっと考えているのは「歌の力」。コレに助けられてきたという恩もある。じゃあ「歌の力」ってナンだろう。黒人のワークソングや日本の田植え歌なんかを聴いても感じられるけれど、やはり腹の底から湧き上がる感情や衝動を声に発することなんだろうか。それだけでも人の心を打つもの。さらに「言葉」、これも重要。あとは、これだけレコードに執着しておきながら言うのもなんだけど、アウラの備わった生声なのかな。そう考えると、“スタイル”みたいなものは追い求めていくと次第にむなしくなるものなのかもしれない。そりゃ表現する以上なんらかのスタイルは必要なのかもしれないけれど、それだけを追い求めても、きっと駄目だ。
そして、社会との関わりかな。コレが今の音楽にはどうにも希薄なのだ。個人的にシンパシーを持っている60年代〜70年代は、社会と音楽が、時代の要請もあって密接に関わりあった稀有な時代だった。何のために音楽を演るのか、というその辺りを現代のミュージシャンに聞いてみたら、一体どんな答えが返ってくるだろうか。自身や他人の慰めに終始するのだろうか。それはそれで大いに結構なんだけど、もっと出来る事はないのか。音楽がシステム化された単なる儲けの道具じゃないこと、ミュージシャンやレコード会社にどれくらいの理解と言行一致させようって言う気概があるのだろう…苛立ちを募らせてしまう。いやはや、長くなって恐縮だが、ノンキに昔は良かった、って言っても居られない現状に焦りを感じる今日この頃だ。