*[コラム] Mixed-Up Confusion(ゴチャマゼの混乱)
ブートレッグ・シリーズの新作リリースが告知されたボブ・ディランに1965年の性的虐待の訴えが起こされたとか。ディラン側は全面否定しているけれど、内心虚ろなニュースに聞こえたりも。目的は被害者自身の不快とされる経験の清算とお金だと想像はできる。セックス・ドラッグ&ロックン・ロール時代の様々なミュージシャンの逸話を知っているだけに(クリーンなイメージのあるビートルズのメンバーでさえ、あんなことやこんなことを…)、ディランへの尊敬は何一つ揺らがないんですが。もし真実だったとしても、歴史的文脈を無視して、現代のモノサシを何とかの一つ覚え的にあてはめることの暴力性ですよね。五輪の小山田・小林事件の時にも同じことを思いました。だからといって、現代におけるセクシャル・ハラスメントの加害者をまさか肯定したり、ここぞとばかりにポリコレ批判をする人たちに与する気持ちも、申し訳ないが全くない。どちらもある種の政治的主張を「ホレ見たことか」と裏付けるためだけのものだから。だから、(同じことをしても)叩かれる人もいれば、叩かれない人もいる。「五輪批判をした人が、フジロックに出ているのは矛盾」というのも正論でもなんでもなく、質と量を吟味するとあまり矛盾はしていないと思うし、「だから五輪も問題なかった」とはならないと思うのだけれど。マスコミをやり玉にあげる人もいるけれど、それもカタルシスみたいなもので、マスコミの倫理を監視する目は必要であるにしても、誰かがお金を出して情報を動かすためのそもそもメディア(媒介者)でしょ、という話にもなる。まあとにかく、こんな愚かな議論ばかりやっていると、社会はどんどんつまらなくなると思う。デジタルにお金を生み出す新自由主義の成果主義、数値主義がリスクマネジメントやコンプライアンスを強いる余り、石橋を叩いて渡らせる社会へと人々を平準化させてしまったということ。元々新自由主義は、途上国に分け前を取られた先進国が、少ない分け前を安全パイで奪うために生まれた経済システムだったわけで。それを導入した小泉政権以来、「変なおじさん」はブルドーザーで一掃され、名実ともにこの世からいなくなってしまった(同郷の志村さん、大好きでした)。あと新自由主義者はお金が第一なので、芸術が手段になっちゃうんですよね。タワマンのてっぺんにいても、そういう趣味にお金を使うことはなさそうな感じ。タダなら音楽聴くのかな。いや、これは私のような貧乏人の考えか(笑)この辺は新自由主義が生まれた歴史的文脈なのだろうけれど、残念としか言いようがない。
「おれはつかまったゴチャマゼの混乱に ねえきみ そいつにころされそうだ
さて 人が多くいすぎるんだよ でみんなよろこばすのはむずかしいよ
さて ボーシは手にもってさ きみ おれは旅にでかけるのさ
さて 女を探してる 同じゴチャマゼ頭の女をさ
さて おれのあたまはナゾの山 からだの温度はあがっていくばかり
さて こたえをさがしているんだが でもだれにきいたらいいのかな
でもあるきつづける まよいもつづく それでもあわれな足はとまりはしない
じぶんのすがたをうつしてみたい 上みて 下みて 宙ぶらりん」
(ボブ・ディラン「Mixed-Up Confusion(ゴチャマゼの混乱)」片桐ユズル・中山容訳)