オリンピック・エンブレム騒動。ツイッター等で炎上っぷりをリアルタイムで眺めていたから、TVや新聞が後手に回ってしまうほどの、ネットの現実社会への確かな影響力を実感できた。でもコレ、今の社会のあり方や進もうとする方向への潜在的アンチだろうとは思う。とどのつまりはムラ社会、税金使って内輪でカネ儲けかいな、という。真面目で勤勉、というイメージも日本人にはあるけれど、概して西洋の一神教的一途さを持たず、楽観的で無責任、というのが良くも悪くも日本人性だったと思う。ええじゃないか、で世直しした、ノリ重視のお祭り大国ニッポン。
しかし五輪相が金メダル30個取るよう厳命しただとか、時代錯誤の感がある。人口減少・縮小社会に向かうにあたって新しいヴィジョンが描けていないことにほとほと閉口してしまう。冷戦下で代理戦争の様相だった五輪でもあるまいし。いまや五輪をスポーツの祭典(日本で言えば国体みたいなレベル)と捉えて、メダル獲得競争なんてもはや興味がない国も多い中で、のことだ。
昨年録画したNHK-BS「名盤ドキュメント3 はっぴいえんど『風街ろまん』(1971)〜“日本語ロックの金字塔”はどう生まれたのか? 〜」を見返していて、国営放送で松本隆も細野晴臣も、来る東京オリンピックへの違和感を表明していたことにビックリした。思えば1964年の東京オリンピックの狂騒で、生まれ育った東京の街の匂いが消し去られた喪失感を『風街ろまん』は表現していたのだった。ローマクラブの成長の限界論や1972年の国連人間環境会議のスローガン「Only One Earth(かけがえのない地球)」などなど近代の歩みと功罪を振り返る契機はあるにはあった。でも、格差を目立たせず進んだ一律の経済発展は日本人にその再考を拒ませてきた。今は誰しも本当は、答えがわかっていると思うんだけれど。それを直視するのは恐いことなのだろう。365歩のマーチのように後ろを振り返らないことが近代のテーゼだった。
SWITCHの「70’s VIBRATION YOKOHAMA」特集のインタビューで細野さんが、日本の伝統をぼくらは受け継いでいないと語ったうえで「教育が僕をつくっていったというか。視聴覚教育って言うのはアメリカが考えた教育だからね。そういうもので自分が育ってきちゃったっていうのがあるし、そこからは逃れられないっていうことがわかったから。」と話していて。つまりロックもカントリーも、レイバンのサングラスもプロレスも、アメリカと日本の共犯関係が上手く成就していた戦後という特殊な一時期に共有された文化だったということなのだ。9.11からイラク戦争を経て、国際秩序も変容し、アメリカという国への疑いが生まれた今、この期に及んでその共犯関係を再構築する動きに反発があって当然だ。でも、ロックは好きという。この矛盾が人間らしい。自分にもよく当てはまるのでその気持ちはわかる。1984年のロス五輪の頃はアメリカに住んでいた。マイケル・ジャクソンに熱狂し、アメリカ文化の本当に何もかもが刺激的で、それこそ圧倒された。日本に戻ってきてからも、アメリカ文化を無条件で肯定・崇拝する自分がいたし。今日、西寺郷太さんの本の宣伝文句を何気なく見ていたら、1985年の”We Are The World”までがアメリカン・ポップスの全盛期だった、と。まさにそうだろうと思う。日本人にとっても。1985年と言えば双子の赤字に苦しむアメリカを主要先進国が救済し、輸出産業で大儲けしていた日本をぶっ叩くプラザ合意があり、その後円高不況解消のための日銀の公定歩合引き下げを経てバブルに突入していくわけだから。ポピュラー音楽一つとってみても、幸福なアメリカとの蜜月関係はその頃までとするべきかもしれない。ビルボード・チャート本も1955〜1985が一番面白いし、しっくり来る。
しかしエンブレム、パクリって何でしょうね?音楽業界でも訴訟沙汰になったモノから、オマージュ、レスペクトなどと受容されているものまで、色々ある。全てのテキストは既出のテキストの引用から成り立っている、という間テクスト性の議論を持ち出すまでもなく、オリジナルというのはあるようでないものだ。ビートルズやツェッペリンだって、色々な音楽からの影響・引用があるわけだから。でも、引用された側やファンが、きわめて主観的に自我を汚された、と感じる部分があると問題になるのかな。個人的な例で恐縮ですが、私もファースト・アルバムを2011年にリリースし、YouTubeにダイジェストをアップした約一年後…とある地方産のジュースの商品名に使われたという事例があった。「蒼い蜜柑」という曲を作ったのは2000年前後。ずっと歌い続けていた曲だけれど、インターネットでそれ以後10年余り検索してきて、この表記は自分の楽曲以外引っかかったことはなかった。でも、アルバムリリースしてリリースインフォやダイジェストが公開された途端、同じ名前の商品が発売されて。しかも商標登録までされていて。私は権利に疎くてそこまでやっていなかったんですよ。さらにキャッチコピーも歌詞とちょっと似ていた。流石に心臓が動悸打ちました。結局やんわりとオーナーの方と連絡を取りまして。パクったでしょ、とは流石に野暮かと思って言わなかったけれど…向こうも焦ったはずだけれど、偶然ですね、みたいな感じだったのでショックを受けた。商品作るとき、類似商品がないか、商標登録されていないか、間違いなく検索したはずだから、気付いていないはずはなかったと思う。この時は正直とっても悲しかったです。(とはいえ恨んだりとかはしておりませんので、こんなこと書いちゃって悪しからず…)弱小ミュージシャンは泣き寝入りするほかなかったんです…
それを思うと、あの大滝詠一の『ナイアガラ・ムーン』をして、ドクター・ジョンを…なんて言う人もいないでしょう。主観的にその高い音楽性にナットクできてしまうし、すごい傑作だなぁ、と誰しもが思う。音楽への愛や造詣の深さを感じる。ドクター・ジョンだって嬉しいのではないかな。まあもっともドクター・ジョンとてニュー・オーリンズ音楽の先達の遺産をポップに展開させた人なわけだし。
でも『ナイアガラ・ムーン』のアイデアが、大滝からすればゴーゴーやシークレット・エージェント・マン、ジム・ウェッブ、なんていうイメージだったはずのジョニー・リヴァース経由だったというのは面白い。ニュー・オーリンズものに取り組んだ『L.A.Reggae』(1972) 期のライブをLAで見たのがキッカケ、というエピソードは好きだ。しかも、そのアルバムの最重要曲、ラリー・ネクテルのピアノに導かれた”Rockin’ Pneumonia-Boogie Woogie Flu”がLAポップスのゴースト・セッションメンだったレッキング・クルー産というのが、大滝さんの志向を考えるとまた面白い。ヒューイ・"ピアノ"・スミスを聴いて、とかプロフェッサー・ロングヘアーを聴いて、とかじゃないんですよね。
今年7月29日にリリースされた2枚組『ナイアガラ・ムーン』40周年記念盤を聴いている。もちろんとても良い!ただ、3枚組ベスト盤の時もそうだったけれど、聴けば聴くほど悲しみがこみ上げて来て、最後まで聴けなくなってしまう。そしてまた、大滝さんが生きていたら果たしてこんな形でリリースされたのかな、という思いはなくもない。本編には遠く及ばないクオリティのラフ・ミックスを果たして正規盤で出したかな?とかね。とはいえ詳しい事情は知らないし、実はこの音源を含むリリース計画を立てていたのかもしれないし、そこはわからない。まあとはいっても、未発表の”ジダンダ”を含むデモンストレーション・ラフ・ミックス・ヴァージョンは確かに貴重な音源ではあった。でもそれより1977年の渋谷公会堂、ファースト・ナイアガラ・ツアーの8曲は良かったな。スタジオとは違うリズム隊だけど、的確な演奏で。何より大滝さんの飄々とした歌の巧さに悶絶してしまった。