/ Dylan’s Gospel ( Ode / 1971 )
新年を迎えて雑感と抱負を月並みに語ってみようかと。今までにない混迷の年なのではないかな、と思う。矢沢永吉は「オマエ次第だ」と紅白で歌っていたけれど、それも当たっている。最近お目にかかることが増えた日の丸にも何の希望も感じない。それもそうである。日本の人口は減少していき、多くの人口を有する新興の発展途上国にお株を奪われていく最中、である。高度経済成長期の大国日の丸ニッポンの幻想に囚われ続けるほど愚かなことはないのだから。日本は別に悪くなってはいない。調子に乗りすぎただけなのだ。けれども、良い思いをしたことがあればあるほど、人間後戻りはしたくないものなのだろう。そんな老人中心の自分本位なマスが、欲望が、今の国を動かしているようだ。もっとも私のような就職氷河期世代はというと、そんなパイの奪い合いを相当冷笑的に眺めているんだけれども。
今のこの国の有り様に関連して、最近とても気になっているのが、1960年代後半から1970年代にかけて既存の価値観に異議申し立てをした若者達、いわゆるカウンター・カルチャー(対抗文化)の精神がどうして日本社会では終息してしまったのか、ということ。「戦争を知らない子供たち」の行く末ですよ。例えば「原発をなくそう」という理想主義的な(ジョン・レノン的、そして憲法9条的な…)言説が一時的に人々の心を強く動かしながらも、すぐさま忘れ去られたのは何故か。音楽ジャーナリストの長谷川博一さんが約20年前「まともなロック・シーンを日本に根付かせたい」というようなことを書いていたけれども、それが困難だった理由とも繋がるだろう。カウンター・カルチャーの中心にいた人々は、現在、保守本流に回収されたようにも見えるし。
自分なりにその理由を考えてみたけれども、まず一つは、就職が決まって長髪を切って体制に飲み込まれていった”いちご白書をもう一度”じゃないけれど、学生運動も結局日本では流行として消費された、ということなのだろう。なにしろカウンター・カルチャーを体現していたはずの団塊が、結局は80年代にエコノミック・アニマルと化し、現在は老後のための保身に走っているんだから(世代論的乱暴さのある言い方ですが…)。“愛(I)の歌からWeの歌へ”なんて言ったら、左翼か!と安易に突っ込まれそうだけれど、そう突っ込まれても可笑しくないくらい、日本のカウンター・カルチャーは社会を「根底からは」変えることができなかったのである。もちろん社会を良くした側面も大いにあるんだけれど…
さらにもう一つ言えば、日本人のノリ、リセット幻想ってやつかな。明治維新やええじゃないかの熱狂を思い出して欲しい。元号制だって全てそうだった。いままでのことはおじゃんにしよう、全てなかったこととリセットして、新たに始めましょう、というノリ。この脳天気さが日本を存続させてきたとも言えるんだけれど、救フクシマと脱原発の熱狂が忘れ去られていくプロセスは、ほぼお祭りニッポンそのものなのであって。
ただ、日本を変えようとかいうスローガンや風潮の中に、具体性ばかりを求めようとする余裕のなさは一体なんだろう。数値目標ばかり求められる風潮・世の中でまず切り捨てられるのは夢でしょう。まあ実現させてこその夢、とか言うどっかの社長の言い分も不気味だけれど、私にとっての夢とは「漠然と、こうしていきたい」という理想主義的な考えだと思っている。今はできないけれどいつか、という。ナイーブかもしれないけれど、そんな気持ちが一つになったときに動く何かは絶対にある。ただ、理想は現実に直面したときに自分が不利益を被ることも多々ある。だから悲しいかな、民主主義という多数決では絶対実現できないんだけれど。
結論の出ない話だけれど、これからはライフスタイルを変えることが大切なのかな、と思う。経済再生、と言うは易しだが、世界が限られた資源の奪い合いの中にあるとするならば、得をする国(人)がある一方で損をする国(人)が出てくるのは致し方ないし、日本が高度成長期の熱狂を取り戻すことは絶対にできないわけで。だとするならば、仕事より家族との時間を大切にするライフスタイルなどに転換していくことが、精神的な豊かさを実現する道なのだと思うけれど。実際我々の世代にもそれに気付いている人は沢山いる。
私も細々と音楽を続けているけれど、今までに「音楽では食っていけないからやめた」というハナシを何度も聴いたことがある。でもその考えこそ変えていかないといけないし、変わってきたと感じる兆候もある。そもそも食っていくためだけに音楽やってたんかい、っていう。あるいは、音楽をやっていると「儲かりますか」みたいなことを言う人もいる。それも同じロジックかな。何で金のために音楽をやらなきゃいけないのか、って思ってしまう。モノ作りの本質が金になってしまっていることに辟易してしまうわけで。もちろん「売れる」=「多くの人に聴いてもらえる」ことでもあるわけだから嬉しいんだけれど、音楽業界のそんな構図もYouTube等を取り巻いて明らかに変わってきていると感じる昨今だ。音楽業界の不況の一方で、誰でも音楽を作り発表できる環境が生まれたこと、これも音楽と共に生きようとする風潮を後押しする草の根的な嬉しい変化の一端と思っている。今年も頑張らないとな…
すみません長くなりました。そんなことを『Dylan’s Gospel』を聴きながら。これはキャロル・キングの『Tapestry』をリリースしたオード・レーベルから1971年にリリースされたもの。ボブ・ディランの楽曲をメリー・クレイトン(ローリング・ストーンズ盤への参加でも有名)やグロリア・ジョーンズを擁するゴスペル隊でカバーしたもの。むちゃくちゃ良い。アメリカン・ルーツに忠実なディラン楽曲はもちろんハマるわけだし。オバマ再選にも思いを馳せつつ”The Times They Are A-Changin(時代は変わる)’”を聴く。