/ 半世紀の男 ( フライング・ダッコチャン・レコーズ / 2009 )
浦沢直樹氏だけれども。実は漫画はまったく読んだことが無くって、エレックがらみのコンサートに出たのを昨年見たのが最初かな。だから、彼をミュージシャンとして初めて見たというわけ。『20世紀少年』くらいは知っていたけれど、詳しく知らなかった訳ね。でも、曲を聴くからにボブ・ディランが好きだと解りました。CDのプロデューサーだった和久井氏とディラン本も出してましたね。
そうして、世間の人々から大分遅れて、映画版『20世紀少年』3部作を見るに至ったわけですよ。いやー、完全完璧な時代遅れでした。漫画が出てから10年近く経ってるわけだし。珍しく民放TVのお陰で。
さてさて、素晴らしい作品でした。まさにモンスター級の漫画家だね。コレにもし世間が反応しなかったらそら可笑しいコトですな。堂々と20世紀というか、昭和という時代を描いた作品。もっと言うと個人的には、東京三多摩地区で少年時代を過ごし、1970年代後半に大学生活を謳歌した世代の物語と読みました。学生運動にも遅れをとってしまった世代の、ね。万博の理想や進歩主義の失敗に対する喪失感、コレはワタシのような30になったばかりの者にもギリギリわかります。
そしてそして、さらに言うならば、ロックの死に対する苛立ちを表明した作品とも読みました。詳しい人にとっては、そんなの自明かもしれませんけど、ワタシは初めて観たもんでね…まあいずれにせよ、一番胸を打ったにはこのメッセージかな。ロックが時代を変えてくれるんじゃなかったのかよ、だったら…っていう。コレは冒頭の校内放送でT・レックスの”20 th Century Boy”をかけても何も変わらなかったシーンでも良く解るんだけれど、だからこそ、もう一度ロックの祭典を、音楽を信じる者のみが地球滅亡から救われる(音楽好きなら、不謹慎ながらこんな妄想を抱いたことがないだろうか…)、ってなシーンが3作目のラストに登場する。そこでアコギを担いだ唐沢利明演ずる遠藤ケンヂ(ホンモノのエンケンさんこと遠藤賢司も3作目に登場)が歌うのが、本作で最も重要な曲として扱われる”Bob Lennon”(浦沢作)なのだった。タイトルからしてロックの象徴(ディラン+レノン)なわけだけれど、曲としては、あのThe Bandの”The Weight”を下敷きにしていると思われる。それはケンヂの乗ったチョッパー・バイクが登場する60年代アメリカン・ニューシネマの傑作『イージー・ライダー』でも重要なシーンに使われていた。
さてこの映画、他にも憧れとしか言いようのない60〜70年代のオマージュが沢山登場する。漫画にはもっとあるみたいだけど。少年時代の遊び場に設置したトランジスタ・ラジオから”Like A Rolling Stone”が流れるのは出来すぎとしても、ラジオという20世紀のメディアで人々が一つになるシーン−これはウルフマン・ジャックの登場する『アメリカン・グラフィティ』とも共通した−は、飢えた時代の音楽の力をもう一度考えさせてくれる。
さて、オウムを連想させる宗教ネタとか、9.11以降の世界の有り様、なんて所まで話を広げたくもなる所だけれど、個人的には、CCRのシングル”雨を見たかい”…、それ、僕も大好きだよー!みたいな、浦沢氏のロックに対する愛が至るところから伝わってきてしまって、最後は話の筋よりも、ロックの死に対して何を為すべきか、という問題がアタマを占めてしまった。
さて、ロックを以てして世界を変えられなかったというのなら、その責任は一体…浦沢氏はそれを自分の中に見たんじゃないかな。20世紀少年である「ともだち」は20世紀を生きた誰の心の中にもある、というわけで。だから、いまだにロックを生きているボブ・ディランに熱を上げる理由だって、泉谷さんはじめアマチュアリズム全開なエレックの現役フォーク・シンガーを信奉する気持ちだって、とてもよく理解できる。ロックが死ぬのを目前にしていても、やっぱり希少種ともなったロック・スターに自分の全てを、未来を、託したいんだよ。この気持ちはプロレスと同じかな。音楽ジャーナリストの長谷川博一さんが話していたことがやっとわかった気がする。ロックとプロレスの相似。浦沢さんとは直接お話したことはないけれど、ある部分では自分と同じコトを考えているのではないかと勝手に思いました。わはは。いやー、思いこみ激しくてスミマセン。
と、そんなわけで、漫画家がヒットに便乗して音楽やりました、と考えて浦沢氏の初の作品集『半世紀の男』を聴き逃しているのは完全に片手落ち。ミュージシャン浦沢直樹を理解せずして、『20世紀少年』は一切理解できないと気づいた、とまぁそんなお話でした。それではバハハーイ。