/ Coyote ( Universal / 2007 )
昨日、南青山のカフェで行われた佐野元春のスポークン・ワード・ライブ。運良く見に行くことができたのだけれど。いやはや驚いた。50人ほどのキャパだったので迫力は申し分ナシ。井上鑑、山木秀夫によるフリーキーなジャズ・テイストの伴奏に合わせて、詩を呟き、歌い、叫ぶという。もちろん、元々ロック・ミュージシャンであるだけに、リズムやメロディを感じるスポークン・ワードではあったのだけれど、十二分にライブとして成立する緊張感にマコトに酔わされた。
近頃は、NHKの番組“ソングライターズ”にしても、ロック界の詩人として、言葉に拘った音楽活動が以前にも増して目立つように思える。バディ・ホリー以来のロックンロールの伝統・創造・再生のプロセスに忠実であった彼。参照枠としての音への希求が、同時代的であろうとすればするほど、下世話な言い方だが“パクリ”という表現で貶められることもあった。それが彼のポピュラリティを減衰させることになったのは残念と言うほか無いが、彼のようなミュージシャンがメジャーシーンから消えた日本のポピュラー音楽界には、もはや「どうでもいい歌を歌っている、どうでもいい人」しか居なくなってしまったようだ。ロックの酸いも甘いも知り尽くした佐野が、ロックを大衆化させてしまった皮肉よ。まっとうなロック・シーンを日本に定着させること、この崇高な使命はもしかすると、90年代〜00年代を経てロック音楽そのものが使命を終えるの待たずに、雲散霧消してしまったのかもしれない。もちろんそれは日本に限ったことではない。例えば“ミュージック・ステーション”に出る外タレ。かつては「スティーヴィー・ワンダーにジャニーズを聴かせるなんて恥ずかしい」と感じたものだけれど、今は誰が出ようと同じレベルにしか見えないし。今のビルボードのシングル・チャートを軒並み聴いてみても、日本と変わらないな、と思う。
さて、そう考えると、いま再び詩に着目する方向性は正解かもしれない。ロックを大衆化させた張本人が、今一度ロックのインテリジェントな側面を引き戻そうとしているような、そんな印象も持ったけれど。トニカク、言葉の力ってものは凄いものだと改めて。
さて、今のところの新作はこの『Coyote』。久々の直球のロック・アルバム。面子も若くて活きが良い音。詩も抜群。M-2”荒地の何処かで”、M-3”君が気高い孤独なら”、M-6”ラジオ・デイズ”が気に入っている。
雑誌『THIS』に掲載されたビートニクスへのインタビュー集『ビートニクス コヨーテ、荒地を往く』(幻冬舎、2007年)は良い本だった。まさにポエトリー・リーディングを実践していたアレン・ギンズバーグをはじめ、グレゴリー・コルソ、ゲイリー・スナイダー、ケン・キージー、ミュージシャンではドアーズのレイ・マンザレクやデヴィッド・アムラムら、錚々たるメンバーとの対話は、じっくりと話した類のものばかりではないが感動的だ。ジャック・ケルアックのホームタウン、ローエルを訪ねた際のドキュメンタリー・フィルムのDVDも収められていて。
3月に来日するボブ・ディラン。彼がまさにビートニクスの影響を音楽に昇華させていったうちの一人。佐野もビートへの取っ掛かりはディランだったに違いない。今の彼は言葉にそれほど熱心に拘泥しているようには見えないけれど、そんな生ける伝説から、何かを、教えてもらえそうな気がしている。