/ ごあいさつ (Bellwood KICS 2017 /1971)
高田渡が亡くなってしまった。昨日は全く呆然としたまま一日を過ごした。彼との出会いは中学生の頃買った『ごあいさつ』。当時90年代初頭はQ盤キャンペーンの名の下、レコード会社各社が結集し、多くのレコードが廉価でCDフォーマットに復刻されていた。これもそうした一連の復刻盤、”鈴木”ベルウッドクラシックスの中の一枚である。数少ない小遣いを握り締めてこの1枚を手にしたのは、日本のフォークにかぶれていただけに当然のことだったのだが、家に帰って聴いた時の「えらいものを買ってしまった、シマッタ」という感覚は未だに忘れられない。中学生には「値上げ」や「アイスクリーム」「生活の柄」が表面的に持っているユーモラスな情緒 ―“自衛隊に入ろう”のような耳をひくフレーズで多くの人に敷居の低い音楽であり続け、彼を単なる飲んだくれのおやじであると誤解させる一因にもなった― を理解するだけで精一杯だったのである。とはいえ数少ないCDの内の一枚だったから、何度も、何度も、聴き続けた。高校生になるとライブにも足を運ぶようになり、吉祥寺レンガ館の前でビニール袋を手に佇む彼を初めて見た。
彼の世界、そして音楽に込められた思想はデビュー時から完成されている。五つの赤い風船とのカップリング盤、空気感の伝わる名作『汽車が田舎を通るそのとき』にしても、通りのいい声色や選曲の一つ一つに意味があった。これは全く昨年のライブ演奏にまで変わらず通底していた。何気ない日常を生きる市井の人々を歌うこと、そして歌と寸分たがわない慎ましい生活を自らが送ること、それが彼の反権力であった。そもそも共産党の扇動歌であったフォークソング ―民衆の歌― のメロディに大正演歌を載せるという彼の発明は、反権力といった左翼思想を通じた独自の日本的アダプテーションだった。ピート・シーガーやウディ・ガスリーと添田唖蝉坊や山之口獏が同居しているというのはとても愉快で、これはまさに彼の個性だ。01年の名作『日本に来た外国詩・・・。』までこうしたアダプテーションの試みは続けられた。
(ちなみに、共産党員の父を持つという彼の来歴と人生観は著書『バーボン・ストリート・ブルース』(山と渓谷社,2001年)に詳しい)
『ごあいさつ』は印税を多く貰うために短い曲を集めたというエピソードにもあるように16の名曲がギッシリ。谷川俊太郎のタイトル曲A-1からぐいぐい彼の世界に引きずり込まれる。はっぴいえんどのバッキングあって、濃厚な高田節の前には単なるバッキングにしか成り得ていない”自転車に乗って”や”銭が無けりゃ”も痛快。前者は導入部分にヴァイオリンにのせた演歌師の口上が。”拝啓大統領様”と同じメロディを持つ”おなじみの短い手紙”もよい。イノダのコーヒーが歌われる”珈琲不演唱”や、Mississippi John Hurtばりのスリーフィンガーが心地よい”ブルース”もなかなか。ラストの浮浪者ソング”生活の柄”は93年の『高田渡』などでも再演されているが、いわずもがなの名曲。オートハープを片手にBS-2の番組“空想ハイウェイ”で歌ったヴァージョンも忘れ難い。
吉祥寺に引っ越してからは、老舗焼き鳥屋“いせや”の店頭に彼の姿を見つけるのが日課だったし ―吉祥寺は人が増えて、彼に居心地のいい町であり続けていたかはわからない― 、奥さんと一緒の彼に話しかけた時に彼が去り際言った「またどこかで」といったニュアンスの挨拶にまで、なんとも風情があった。昨年5月の吉祥寺音楽祭では、小室等や息子の高田漣、佐野史郎を招き、多くの観客を魅了したのだが、ぼそぼそつぶやいているようで馬鹿でかい、彼のボーカルにいささか、いつもに比べ陰りが見えたのが、少し、気になってはいた。映画『タカダワタル的』の公開、死んでもいないのに発売されたトリビュート盤、生きた伝説へのレスペクトが最高潮に達する中での今回の訃報。吉祥寺の灯火が、いや日本のフォークの灯火が又一つ消えた。